「グローバリズム」はいつまで通用するのか?

近代化されてからは「グローバリズム」という言葉が盛んに用いられているようです。
もちろん、現在でも盛んに用いられているのですが、私にはこの単語に疲労が発生しており、齟齬が生じているように思えるのです。
グローバリズム、あるいは似た別の単語でも良いのですが、これらの言葉は
「国境を越えて人、物、情報が移動する世界を説明するための、広い意味で用いる。」
と言ったことなのですが、根底には強く国境という制度を意識することを前提としているようなのです。それも、かなり強く意識しているのです。
しかし、現実の人間生活はもっと国境なんか関係なく交雑が起きているものです。
じゃがいもを食べる際に、この作物が南米原産であることに思いをはせて食べる人は多くいるのでしょうか?
むしろ、風味やら茹で具合を気にするものです。
コーヒーを飲む際に、原産地とされる
「エチオピア文化の恩恵を受けている」
と考えて飲む人は多いのでしょうか?
ただ単に気分転換を図りたいだけのはずです。
キリスト教徒が祈る時に
「中東発祥の宗教を信仰している」
と考えるのでしょうか?
それは事実ですが、教義の方が重要に他なりません。
どこの発祥であるかを考えることは、マタイによる福音書について考えることを越えるのでしょうか?
文化は国境を越えた瞬間に国際文化になるわけではなく、単純に人間の生活の中に入り込んでしまうのが実情のようです。
さらに、情報通信は面白い状態を爆発的に発生させています。
インドの人が英語で秀逸な動画を作って投稿します。
すると、私がそれを見て、イタリア人、トルコ人、タイ人も見て、英語でコメントをします。
これを「インドからの文化輸入」とか「海外文化の受容」と表現するのは不自然だと思います。
実態は、みんな同じコンテンツを、国籍をほとんど意識せず同時に消費しているのです。
単にその動画が楽しく、人間としての反応が前面に出ているものになります。
国境が関係なくなった、に等しい現象です。
更に、リアルにおける濃い人間関係を見てみます。
国際結婚は、あくまで結婚であることが大原則です。
要は、相手のことを「美しい」「優しい」「楽しい」といった個人の属性で相手を見てのことであり、国籍で結婚するものではない(はず)です。
そして、そのカップルから生まれてきた子は、周囲から
「お父さんは外国人なのだね」
と、出自を話すとさんざ言われることなのですが
「我が父は、子煩悩か?理解者か?頑固か?」
こそが、生活する者として、ずっと重要なのです。
こそが、生活する者として、ずっと重要なのです。
そして、ご近所に住む外国人たちにしても、最初は国籍に視線を注げども、やがて
「あの人はオシャレ」
「あの人が頭の回転が早い」
「あの人は酒飲み」
といった、どんどん細かな個人属性こそが重要になってくるものです。
ここで、話を19世紀後半から20世紀初頭に移します。
孫文、林語堂、辜鴻銘など、英語のできる中国人は欧米で英文著作を出して、自国の知らしめんと奮闘しました。
「中国 → 国境→(海を越える) → 欧米」
という構図にあるわけですが、先ほどのインド人が英語で作った動画の例を引用しますと
「インド人、私、イタリア人、トルコ人、タイ人」
と、デジタル上ですが同じ空間に居ます。
人間同士の交流はあまりにも日常化してしまい、国境と言う単語は、どこまで有効になってきているのか疑問が出てきます。
いや、そもそも国境なるものは近代になって、それまでよりも明確な線として制度化したものにすぎず、食物、宗教、音楽、技術うんぬんは、その線を設定していたとしても簡単に越えてしまいます。
こうなりますと、世界を国家と国家の関係として理解することの限界が露呈しているとしか思えません。
グローバリズムとは、国境を越えることを前提とした思想でした。
しかし今日、国境を越えること自体があまりにも日常化した結果、国境を越えるという発想そのものが、現実を説明するには古くなりつつあるのかもしれません。
近代以降の思考習慣の結果として、我々は国境が意味を持たない領域の広がりに気がつくことに制約を受けているのかもしれません。