「私」とは存在していると言い切れるのか?

「私とは存在するのでしょうか?」
などと誰があなたに聞いてきたら
「はぁ?おまえは幽霊か?」
と言い返し、後ずさりして距離を置きたくなることでしょう。
そういう話ではありません。
例えば、あなたがチョコレートを手にしているとします。
「なぜ、それを選んだのですが?」
と聞かれたら
「安いから」
「前に食べて美味しかったから」
「宣言で見たから」
と回答することと思います。
他にも
「友人から早くしてとせかされ、急いで選んだ。」
「甘い物が欲しくて消去法で。」
なども考えられます。
普通は、そういうものです。
それで良いのです。
何故このチョコレートを選ぶか?を深く考えていたら、結論が出て食べるまでに2カ月以上はかかることになるでしょう。
そんなことは、たいがいアホと言われて軽蔑されます。
それでいいのです。
他方で、選ぶことを深く考えるのも良いのです。
多少は高くても、時間がかかれども、自分の好みの至福のチョコレートを探して選ぶことは悪いことなのでしょうか?
これで話の方向が少し見えてきましたか?
そうであるならば、冒頭のセリフに戻ります。
「私とは存在するのでしょうか?」
本気でチョコレートを選ぶとなると、多くの苦労が必要となりそうなことは先ほど触れました。
日々の何となくのチョコレートは、メーカーの価格政策、宣伝の話題性、小売店の売り場作りなどに影響されて、真に自分で選んだとは言い難い選択をしているのだと思います。
そうなると、日々の選択に「自分」あるいは「私」は存在しているのでしょうか?
よくチョコレートを選びに失敗した人は
「隣のチョコを買えばよかった」
などとif(イフ)を語ることでしょうが、そもそも近所のスーパーで買う安いチョコレート選びだなんて次元が同じで、どっちもどっちです。
決してチョコレートの本を読んで、ショコラティエに会いに行って、いろいろ食べ比べての選択とは明らかに次元が違うのです。
従って重要となるのは、何を選んでいるかではなく、自らの在り方がどのような状態であるかになってくるのです。
つまり
「スーパーの棚の一番上から選べば良かった」
は偶然性に結果が左右されるもの。
他方で、チョコレート博士になって、製法や原材料をよく見て買うのは、消費者としてアップグレードしており、結果が自らのレベルいかんで上質なものになっていきます。
仮に外れたとしても、それは判断材料の1つとなるのです。
こうなってくると、幸福なチョコレート選びは、宣伝の話題性など、外部要因が大きく握るものではなくなってきます。
そのような選択をしている人には確実に「私」が存在していると評価できます。
状況に応じて主体性ある選択を連続すること それ自体が「私」という輪郭を浮かび上がらせる行為であり、心理学で言うと「プロセスとしての自己(常に変化し続ける経験や行動の連続として自己を捉える心理学的な概念)」なのだと思います。
なんだか、ややこしくなってきました?
ではチョコレートに戻って解説します。
あなたがチョコレート売り場の担当者だとします。
日々を
「売れるものを」
「安いものを」
と考えて仕入れをすることもできます。
それで、経営は成り立つ要素は大きいと思います。
しかし、もっとチョコレートに興味を持って、試食をしたりカカオの生産地に興味を持ってみることもできます。
そうした研鑽の結果として、担当者オススメのコーナーを作ることもできます。
こうなってくると、この人は単なる雇われ人ではないと思います。
同じことはコーヒー豆の販売にも言えるかと思います。
さて、日々に追われている私たち。
本当に存在していると言い切れるのでしょうか?