負担をかけないためには、あらゆることを禁じるべきなのか?



人が集まる場では、たいがい「***をしない」という禁じるルールが多く見られます。
衝突回避のために手っ取り早い手段として制定しているものの、これには自由を大きく犠牲した上に成り立つものであるため由々しく感じる面もあります。

例えば部屋において「大きな音を出さないように」というルールが制定されているとします。
(大きな音って何デシベル以上なの?とか突っ込まないでください。だいたい、世間一般で通じる感覚で、ざっくりとらえてください。)
となると、最新のK-POP音楽を流したい人が出てきたとしても、その人は諦める他ありません。

大きな音は問題だ、との考えでルールが制定されているわけですが
「問題は調整が可能だ」
と考えていないための狭量さが出てしまう例となります。

他人に負担をかけない自由ならば許容する設計をしないのでしょうか?


ただ、ここで言う自由とは多数決の結果を指し示しているわけではありません。
仮に多数決を採用して、過半数がK-POP音楽をドーンと流すことを支持した場合に、我慢をする必要がある層(=反対票を投じた人々)が出てくるのです。

ですので、影響を受ける側を優先することにし、被害回避の原則を根底に据えるのです。
平たく言いますと
「嫌がる人がいなければ、やって良い。」
ということです。

こうなってくると、ゼロサム(完全に大きな音を認めるor完全に認めないか、の二者択一)を回避して共存への手探りが行われています。

さて、私が訪問した居場所や当事者会では、どうもゼロサム的なルール制定が多く見られます。
この界隈のルール制定が、そのようなものが多いから自然とそうなったのか。
あるいは毎度で決めるのが面倒なので一括ルールにしたのか。
真意はわかりかねますが、自由が大きく制約されていることに私は大きな疑問を感じています。

共存できる範囲内において、大きく自由を認めないのでしょうか?