裸を見られることは恥ずかしいことなのか? ひきこもりの思考方法

まず念のために申しておきますが、猫からではなく人間から裸を見られることを指しています。
そして、私は裸を見られたら恥ずかしいです。
こんな
「裸を見られる=恥ずかしい」
という常識的なことを、わざわざコラムにするには理由があります。
「裸を見られる=恥ずかしいこと?」
と考える人がいるからです。
簡単に説明しますと、恥ずかしいと思わない2つのグループがあります。
- 熱帯地域に住む裸の民族
- 裸体主義者(ヌーディスト)
です。
彼らは外部の人間が現れても、裸体を見られることに羞恥を感じないのです。
こうなってくると、裸体を見られることが恥ずかしいのではなく、見られたことを本人がどう考えるのかが重要な判断要素になってきます。
そして、この考察手法を、ひきこもりに当てはめて考えてみたいのです。
ひきこもりの人は、自らの存在を「恥ずかしい」と考える傾向が見らえれます。
自分に自信が無く、謙遜した言動に終始するのです。
よくよく聞いてみますと、そうである理由として
- 会話が上手くない
- 人づきあいが苦手
- 仕事ができない
- 要領が悪い
- 恋愛が下手
などを理由に挙げています。
ところが、これは集団行動という監獄において有利とされる条件を器用に達成できていないだけのことであり、人間性全般の否定にはなりません。
にも関わらず、彼らは、あたかも裸を見られているかのような羞恥を感じているのです。
本当に恥ずかしいと思う必要があるのでしょうか?
完全に真逆なタイプがいます。
- 人の話を聞かない(→会話が上手くない)
- 相手を尊重しない(→人づきあいが下手)
- 仕事でミスをしても認めない(→仕事が上手くない)
- 二度手間をしている(→要領が悪い)
- すぐに恋人と喧嘩別れ(→恋愛が下手)
と、どう考えてもお手本にはできないタイプの人でありながら、羞恥心を持たない人がいるのです。
この2つの現象をまとめると
「出来が悪いことに、恥ずかしいと思う人がいれば、何とも思わない人もいる」
となります。
反省することは改善に必要であるのですが、羞恥心にさいなまれて動けなくなることは大きな損失に他なりません。
となると、取るべき手段は自らの感情を調整するに他ならなくなります。
裸を見られた、という事実は揺るぎない事実であるものの、どう考えるのかは正反対の結果が出るのは冒頭に挙げました。
では、出来が悪かったり失敗したことに対して、どのような心理を持つのか。
強度の羞恥心を持つのか、中程度か、軽度か、はたまた一切持たないのか。
この点が唯一のキーとなってきます。
当然ながら、即日に変わることはできません。
かなり長い時間をかけてでしか変わることはできません。
私の場合は11年かかりました。